玉川問題について~その5
さて、今回は「レポート問題は公開した方が良い」と言う話、です。いや、下手すれば通大で利用しているテキスト類でさえ「市販くらい」した方が良い可能性さえ、あります。あるいは元々市販されているテキストを使うべきか。
一つの理由は、数学系回答サイト側の立場から言うと「問題の出所が分からないと困る」と言う下世話な理由です。
以前、質問<3731>で書いた通り、通大事務部課長補佐には
「怪しい問題投稿にはなるべく対応しないで頂きたい。」
と頼まれたんですが、その問題投稿自体が「怪しい」と気づくのは並大抵じゃないのです(だからこの要求は無茶苦茶だ、といまだ思っています)。
事実、たまたま、今回僕が気づいただけ、だったんですが、現に高校数学の窓の10年の歴史で「他の誰もが気づかなかった」くらいですから。いや、ハッキリ言うと、「通大の質問投稿者だけは」気づいてたワケですけど。外部で気づくのは並大抵じゃない。
すなわち、通大で明言している「不正レポート厳禁」と言うシステムを徹底するんだったら、「出題側」としてある程度問題自体を公示しておく責任がある、と言う事です。つまり、「カンニングでの教員免許取得者がいる可能性がある」事に対しては、これは通大側が文部科学省との絡みがある以上、徹底して防がなきゃならない。そしてその一番効果的な方法は「レポート問題の公開」である、と言う事です。
これは別項で、ある数学系回答サイトの「ある事件」を例にして、「問題の入手が簡単だ」と言う事が防御策として如何に効果的か、また、「どんな形であれ問題入手のルートが保証されている」事こそが有効だ、と言う例を挙げるつもりです。今のように、「テキスト不明」「レポート問題も不明」「受講者も不明」だとホントワケが分からない、と言う事だけ言っておきます。3番目は「個人情報保護の観点」だとこんなの公開出来ないワケですから、前2者くらいは対応考えた方が良い。じゃないと前回指摘したように「不必要に教育を隠している」と疑われる可能性がある。
そして、Z会や進研ゼミならいざ知らず、前回見た通りにマトモな大学だったら教科書/レポート問題辺りは公開して構わないモノだ、と言うのが大方の大学側の共通見解なのです。
だから殆どの国公立大学でシラバス類を公開しているワケですが。
また、一般人だろうと何だろうと、シラバス類を見ることは可能です。制限なんて無い。パスワード制にしておいて中身は見れない、なんてセコい事はほぼやりません。
ハッキリ言っておきます。この玉川問題は、事実、問題投稿者が通大生である事がサイトの管理人側に知られる事が無いと言う事が明らかに悪用されていた、んです。この一連の事例に関して言うと、高校数学の窓側に責任はありません。通大側の責任なのです。
別に通大に悪気は全然持ってませんが、言うべき事は言っておかないとならない。レポート課題を隠しておくのはデメリット以外の何物でもないのです。通信教育制大学の教育の正当性があるのなら隠す必要なんて何も無い、んです。隠してるのは隠しておくだけの別の理由があるんじゃないか、と勘ぐられるような事はやらないに越したことが無い。
さて、その数学回答系サイトへの「問題の出所を知らせる」以外に別の理由もあります。むしろこっちの方が大事かもしれません。
玉川大学通信教育部数学コースの問題点
ところで、高校数学の窓の過去問調べてみると……中には「どうしても解けない」問題やら「意図が良く分からん」問題がある。
「どうしても解けない」問題は、原則未解決問題に流れてた、んですが……。ちょっと不思議だったんですよね。
まあ、「丸投げクン」の性質見てみると、大概、
丸投げするヤツに限って問題さえ正確に書き写さない
と言うのが見えてはいたんですが、同時に
明らかに問題文の誤植である
と言うのも充分あり得る、ワケです。この2つは極めて見分けがつきづらい。
丸投げするヤツに限って問題を正確に書き写さない、と言う例。 これは2008年度の通大の「幾何学」のレポート課題だが、「第2分冊」の問題(1)は高校数学の窓の質問<3699>そのもの、である。 また、これは玉川大学 数学コース掲示板でも既出である。 なお、第2項を良く見ると質問<3699>の場合は係数である2が落ちてるが、要するに正確に書き写してないからに過ぎない。 なお、同問題はやはり質問<3601>としても投稿されていて、またそのうちの一つが「みのる=ミノル」によって「喰い付かれて」いる。 |
原則、僕は数学嫌いですし、他の回答者がどう反応するかは分かりませんが、
他の教科の問題に比べると、数学は問題が間違っていると判定するのは極めて難しい教科
なんです。意外な事に。そして数学好き、ってのは問題を見た以上、「この問題はおかしいので解けません」と言うのを非常に嫌う、んです。「書かれている以上解ける」って思っちゃうんですよ。
例えば、英語の場合「文法」なり「構文」がある以上、「文意がメチャクチャになる」訳になるような文章だったら「印刷ミスだろ」と言う判定が可能です。日本人でその判定が無理だったら、アメリカ人辺り連れてきて読んで貰えば良い。実は「問題が間違ってる」場合、判定は思っているよりラク、なのです。
他にも物理なんかの場合、例えば運動方程式を解いたら「重力のせいで物体が空中に浮遊していく」なんて解が得られたら「計算過程さえ間違っていなかったら」問題の方がおかしい、と言う指摘が可能です。解の妥当性は自然が判定してくれるワケで、そこから「問題文の印刷ミスだよね」とか言えるのです。
プログラミングだったら「本に書いてるように打ち込んで動かなかったら」誤植で決定、ですし。殆どのケースでは「誤植判定に関しては」問題が生じないのです。
ところが、数学にはこれが通じない。そもそも「抽象的な事柄を扱う」以上、「どんな問題でもあり得る」のです。フェルマーの最終定理が300年も解かれないままほったかされていた最大の理由は「この問題は間違ってるだろ」ってどんな数学者も「言わなかった」から、ですよ(笑)。「提示された以上解くし、解けると信じる」のが数学者のアティテュードなのです。いや、僕は数学全然嫌いなんですが、「彼ら(例えば、UnderBird氏やPhaos氏)の行動はそう」ですね。まず間違い無い。
となると……例え高校数学の窓に投稿された「おかしな問題」でも「おかしい」と判定するのはかなり困難です。数学の場合、「おかしい」と判定できるにはある種条件があって、
- 出題範囲が限定されててそれを知ってる。
- じゃなかったら、回答者側が神と言える程の超人的な数学的知識なりバックグラウンドを持っている。
のどっちか、なんです。
どうして高校数学教師が大学入試くらいまでの"誤植付き"問題に関して「これはおかしいだろ」と判定出来たりするのか、は上の条件だと1番が絡んでいるから、ですよね。「高校範囲まで」と言う限定された状況だから「判定できる」んです。が、「入試です」とか言わなかったら彼らは絶対「問題がおかしい」とは言いません。10年かけようが100年かけようが「解こう」とするでしょうね。そう言うのが「数学者の性質」なのです。
これが玉川問題をややこしくしてた一つの原因です。「ある頻度で誤植がある問題が投稿されている」と言うのを指摘するに指摘出来なかった。一体どう言う事なんだ?と。逆に僕みたいな「数学の素人」の方が「おかしいだろ」と気づきやすかった、んですね。
平たく言うと、テキストにせよ、レポート課題にせよ、公の目に晒されていない、と言う弊害がここに端的に表れています。
つまり、どんな教科書にせよ誤植があるのは事実なんですが、たくさんの学校なり人々に使われる事によってその間違いが是正されていく、わけです。
一方、通大の場合は、テキスト/レポート共に「一般の目に触れる事があり得ない」。従って、毎年ある程度の問題の入れ替わり、冊子の印刷/作成が絡むと明らかに誤植が出る、んですね。普通の教科書や問題集の比じゃない、でしょう。
さて、では現状のままでの「問題の誤植報告」そして「その是正」がどうなっているのか?
まず、第一の問題として、査読者=通大数学コース受講生、と言う図式しか現時点「あり得ません」。そうすると、前に書いた通り、「テキスト/レポートに関する誤植報告」と言うのは受講生の立場から言っても「極めてやり辛い」。もしくはそう言った事に「気づかない可能性さえある」って事です。
また、システム的な話で言っても、誤植報告が成されてからどの位迅速なスピードでその「修正報告」が上がるのか?現時点では通大Webサイト内で「修正報告」が成されている、と言う話ですが、それでも二転三転してたりする筈です。
例えば、質問<3689>なんてのは誤植の極み、なんですが、その修正報告は都合5回前後は行われているでしょう。しかもまったく違う記述修正になってたりして。一体どの記述が正しいのか?受講生を混乱に叩き込んだ筈です。
恐らく、受講生の「誤植報告」もまちまちで対応がバラバラだった、と言う事に起因してると思いますが……。
いや、これはWeb出来てまだ良かった例、ですよ。インターネット普及以前だったら、このテの修正報告は通大の機関誌「玉川通信」上しか無かったワケですよね?そうすると、機関誌が編集段階から実際受講生の手元に届くまで約2ヶ月、と言う話なんで、これは気の長い話、です。「誤植報告」が成されてから「問題の誤植」と言う報告が受講生に行き届くまで2ヶ月、って事ですよね?そうすると、レポート提出→科目試験受講の予定だって「全く狂う」。しかもWebでも5回修正報告が成されるような有様なんですから、昔の通大生はもっと過酷な状況に置かれてた、って事です(笑)。機関誌届いたら「また誤植発見/あるいは修正報告」って事なんですから(笑)。
いずれにせよ、どんな形であれ「ミスはある」んですが、どうせだったら数学マニアとかそう言う人たちの手を借りた方が良い、って事です。通大のレポート課題がネットで公開されたら、その回答を通大生に教えるのはダメですが、腕に覚えのある数学マニアとかは解きたがる公算が大、です(笑)。なんせ悪名高い(笑)「難かしいレポート課題を出す」と言う噂のある通大数学コースのレポート課題ですんで(彼らは難問を解くのが楽しくてしょーがない、でしょう)。
そうすれば、誤植報告なんかももっと効率が良くなりますよ。あるいは数学の専門家なんかも目を通してくれるかもしれません。そう言う人たちの「報告」は通大のレポート課題の質の維持にむしろ一役買ってくれる事と思います。
いずれにせよ、そう言う「メリット」は通大のレポートを「隠していれば」得られない事、です。じゃないと「やっぱり隠したい何かがあるから隠してる」と思われる、って事ですね。
ちなみに、この「誤植付き出版」→「読者からの報告による版の修正」と言う流れをソフトウェア産業に持ち込んだのが、いわゆるオープンソース、と呼ばれるモノだ。原理的にはオープンソースソフトウェア、と言うのは長年の「出版の慣習/システム」を情報工学の文脈に持ち込んだに過ぎない。
原則、「本は出版(公開)されていて」「誰でも読める」モノであり、そのお陰で本に誤植があっても版を重ねる毎に修正されていく。
オープンソースも原理的には同じで、「ソースコードを誰でも読める状態にしているから」何らかのプログラミング上の間違い(いわゆるバグ)が高速度で修正されていく。従って、オープンソースのプログラムは「出版物のごとく」どんどん高性能で信頼性の高いモノへと変化していく。
一方で、「バグがあってもなかなか修正されない」「何故ならソースコードが隠されているから」と言うのをオープンソース界は「プロプライエタリ」ソフトウェアとして批判する。代表的な「プロプライエタリ」なソフトを売っているのがご存知Microsoft。事実、「バグ報告をしても」なかなか修正されずに不具合を我慢しながら使わないとならなかったりする。
通大のレポートの類はまさしく「プロプライエタリだ」と言うのが現状で、レポート課題の「バグ」がなかなか指摘/修正されづらい、と言う対比で事の重大さが分かるだろう。通大はMicrosoft的なのである。
結果として、「普通の大学」での「オープンソースの」普通の教科書を使った「普通のレポート」の方が高品質だ、と言う事になってしまってるのだ。それは「教育の質」として端的に表れるだろう。
いずれにせよ、レポート課題の類は原則「オープンソース」にすべきだ。「独自非公開技術」にこだわっていても何も良い事が無い(丸投げ通大生の行動を見ろ!!!)。
第二の問題として「意図が良く分からん問題がある」。細かすぎる問題である、とかフォーカスが何なのか良く分からん問題だ、って事ですね。
「細かすぎる問題」の典型例は、例えば次のような問題があります。
質問<1700>2004/5/16
ここでBossF氏が
こういった、基本定理の証明は、こまるんですよね〜
と記述してますが、どうしてなんでしょう?
それは「基本定理の証明」がある意味一番難しいから、です。多分本当に一握りの数学専門の人じゃないと殆ど「そんな証明法は知る必要が無い」んですよ。少なくとも、応用数学の立場ではそうですよね。定理は「使う為のモノ」なんで「証明する為のモノ」じゃない、んです(反論あるかもしれませんが)。「どうしてそんな細かい事を問う問題が出てくるんだ?」ってのが一つ謎だったんです。
まあ、亀田は数学の専門家でも数学教育の専門家でも無いので明言は避けておきますが、少なくとも「基本定理の証明」が本当に数学教育に於いてそこまで必要なのか?勘で言えば「ちょっとおかしいだろ」とは思います。また、通大の方の教育方針がどうなのか、ここでも丸っきり分からないんですね(笑)。何が意図なのか?
基本的に、この範囲の話ですと、最低でも数学関連の修士じゃないと判定がキツいんで、本当はUnderBird氏やPhaos氏の見解伺ってみたい辺りなんですが、ここも通大の「教育の非公開性」が絡んでいるので極めてやり辛いでしょうね。大体、基本定理の証明法だったら教科書に書いてあるのがどのみちフツーなんですが、それが不明だ、ってのがBossF氏の発言に繋がっているのは想像に難くありません。
ちなみに、通大の名誉の為に言っておきますが、上のレポート課題関連の説明は一応通大のテキストに記述があります。「代数学III・IV」のp.58辺りに「正則行列」と言う項目があって、
- (a)Aは正則
- (b)rank A=n
- (c)A〜E
辺りの証明は載ってる、んですよね。「基本行列」の定義に関してもp.44辺りにやっぱり「載ってます」。
従って、テキストを丁寧に読んで、継ぎ接ぎしていけばそれなりに証明出来る筈なんですが、要するに投稿者の傾向としてテキストを勉強しないでレポートに取り組む奴がいる、って事を暗示してるに過ぎない、んです。
一方、それさえもテキストが公開(ないしは市販)されてないんで、指摘出来ない、って事実に変わりはない、んです(通大の先生達、見てますか〜〜???)。
「フォーカスが良く分からん問題」としては次の問題があります。
質問<3536>2007/4/16
これは、自分で解いてて何なんですが、マジに「意図するトコが分からなかった」ってのが感想でした。
特に、幾何分布に付いて、なんですが、通常これの期待値求める場合は単にモーメント母関数を使う、んです。しかしながら、この時点では後者の問題との兼ね合いもあって「数列化して解く」方法を選んだんですが、釈然としないワケです。
まず、普通の学部生だと「確率論専攻」じゃないと「モーメント母関数」なんて知らないだろ、ってのもありましたし、そうすると「何の目的で幾何分布の平均値を求めよ、なんて問題出すんだろ?」と頭の中が疑問符の嵐だった、んですね。「幾何分布を知る」事自体は統計学の観点から言うと必要かもしれませんが(いや、それにしても重要度は低い、です)、こんな証明問題やったトコで「あんま役に立たない」んです。断言出来ますね。非常に不思議だった。
さて、出題傾向から言うと、あり得るパターンとしては次の二つ、です。
- 実は何だかんだ言ってテキスト自体に解答が書いてある。
- じゃなきゃ、テキストとレポート課題の間にムチャクチャな開きがある。
まあ、結論から言うと、このレポート課題は最悪である2番のパターンなんです。確かにテキスト熟読したからと言って解ける問題を出してる、とは限らないんですね(苦笑)。通大の「確率論」のテキストザーッと眺めましたが、一般論はともかくとして例えばモーメント母関数なんて影も形も出ていません。何じゃコリャ?ってのが正直な感想でした。っつー事は、やっぱりこれは「数列の問題として解け」って事か。
しかしそうなるとおかしい。数列自体はジャンルは「解析」なんですが、そうすると、
通信制大学である以上、受講生は自習が基本なんで、確率論のテキストを学ぶ前に解析を修了している保証がどこにある???
と言う問題が出てくる。そうなんです。少なくとも通大生の全員が全員「解析」終えてから「確率論」に手を付ける、なんて保証は何も無い、でしょう。人によっては「確率論」終えてから「解析」やる奴もいるだろうし。
註:ちなみに、通大のシステム的には、入学と同時に全てのテキストは「ダンボール一箱分」一式送られてくるそうです。年度毎に送られてくるのはレポート課題集のみ、と。
よって、「テキスト一式が最初に送られてくる」以上、どこから手を付けるか、は学生次第、と言うワケです。
あるいは、「高校数学の数列を理解している」と言うのが前提かもしれませんが……いや、それにしても、今までの経緯から大体想像付くとは思いますが、そもそも通大生は「最低限、高校数学を理解している」と言う保証さえ無い、のです。いや、ホントに無い。
そして、「確率論のレポートで」数列の知識試されてもしょーがない、でしょう。枝葉末節とはこの事です。こんなテクニカルな問題出したって確率分布と言うモノが何なのか、分かるワケねーだろが、って事ですよ(笑)。
例えば、大学入試問題で「ある程度の複合問題を出題する」ってのは必要です。これは「全般的な知識を見る」のには有効なテクニックではありますが……。一方、「あるジャンルに対しての」学習進度を見る前提の「レポート課題レベル」で不必要な複合問題の出題は害悪だと思いますね。フォーカスがチンプンカンプンになり兼ねない。通大は「それを」やってるんです。質問<3689>なんかもそう言う悪問ですね。これは断言出来ます。
こんなのもレポート課題として公開してしまえば非難されると思います。「だからこそ」やるべきなんじゃないか、と。
モーメント母関数も習わないで幾何分布の期待値を求めよ、なんてのはヘンだろ。
とか。結果、「定石無視したりする辺りでの出題」ってのは減るとは思いますね。いや、それは絶対減るべきなんですよ。レポート課題の出題は学生イジメが目的じゃねえだろ、っての。
これも「問題が隠されているからこそ生じてる」マズい典型例だと思います。「正常な問題だけ残る」ってのは健全な教育のあり方、だと思いますよ。
通大事務部はテキスト/レポートに関してクレーム受けても対処出来るわけがない、と言う話
さて、僕は数学が専門じゃないんで、上記のような「分析」したくなかったんですが、敢えてやりました(笑)。まあ、異論がある回答者もいるとは思うんで、それはその都度指摘して下さい。しかし、それを「指摘する」にせよ、やっぱり通大の教育システムに「公開性が無い」以上、議論として成り立つのは難しいでしょう。(テキスト/レポートを何とかして入手した)僕に対しても、そして通大に対しても、です。
ただし、仮に、この手の問題があると認めたとして、「通大生」が疑問に思って、クレームとして通大側に提出するのも難しい、って事だけは事実です。もっと分かりやすい例を挙げたい、と思います。例の「プログラミング関連」の話、ですね。
以下、通大事務部課長補佐、との会話。
亀:「いやあ、でもこのコンピュータのテキストはさすがに酷いですよ。コンパイラもエディタも入手先は一切書いてませんし。」
課:「………???」
亀:「いや、要するにPascalなんてどこで手に入れるんだ、って話なんですが。」
課:「………。」
分かりますかね(笑)?いや、コンパイラもエディタも専門用語なんですが、わざとそう言ったんです。果たしてそのテの話に明解な解答するのかどうか、と。
思った通り、知らなくって当たり前なのです。事務部の人間はコンピュータの専門知識があるワケじゃないんで、専門用語出されても分からないでしょう。従って、具体的に専門的なクレーム受けたところで分からない、ってのが現実です。
コンピュータだから分からなかった?いや、数学だろうと事情は変わりませんよね。
畳み掛けに次のような事も言いました。
亀:「ええと、このコンピュータのテキスト見ると……"すべて、PC-9801上のTURBO Pascalで書いてあります"とか書いてるんですが……。PC-9801って何だか分かりますかね?」
課:「ええと……凄い古いコンピュータですよね?」
亀:「そうです。何でこんなの使ってるのに現行のテキストなんですか?」
最初に亀田が入手したテキストが「現行のテキストと同じである」と言う確認取ってたんで、こう言う流れになったんですが、実はこのテキスト、初版が平成3年なんです。……って事は……1991年ですか。何と17年前のテキストのまま今も使っているんですよ。
もう分かったでしょうが、この異常さも公開性が無いからこうなってる、って事です。部外者じゃないとこの異常さは指摘出来ないでしょう。そして、亀田の読み通り、これが「何故に今頃Pascalなのか?」の答えでもあるんです。1991年頃は、確かにプログラミング入門用言語としてPascalがもてはやされていた時期だったから、ですよね。
しかし、その常識は今じゃ通用しないのです(パソコンの進歩は日進月歩だと言うのに!!!)。従って「そんなテキストは現代では通用しない」のは当たり前なのです。
NEC PC-98011982年に登場し、最後のマシンは1995年頃まで販売されていた国産機。なお、CPUはインテル製ではあるが、現行のWindows機とは基本的に互換性が無い「NECオリジナル機」である。Windows 95の登場でトドメを刺されたが、それまでは日本国内で最大のシェアを誇っていた。 なお、現代の20代の若者に「昔、PC-98ってのがあってさ」なんて話をしても「何それ?」って言われるのがオチ、である。 日本国内を席巻した「PC-9801」の名前は既に遠い過去のモノとなっている。今時の若者にはNEC自体がLaVieとかValueStarのメーカーなのだ。 通大よ、こんなの使ったテキストを現行のモノとして「おかしくないのか?」、ないしは、通大生は30代以上、と言う取り決めでもあるのか(笑)。 今時Commodore 64でプログラミングの勉強をさせる、くらいのニュアンスである。 | |
あまりにも面白いんでこのフレーズまた提示しますか(笑)。
すべて、PC-9801上のTURBO Pascalで書いてあります。
通大で使われているこの「コンピュータ」のテキストには一切Pascalの入手先もクソも書いてありません。エディタに対しての設定、記述も無しですし、コンパイラの操作方法に関しても全く記述が無いのです。以前書いた通り「Pascalの出題してるにも関わらずコンパイラの入手先なんか一切学生に教えていない」と言うトンでもない状況が当たってた、って事です。
ではどうしてこんな暴挙が許されていたのか?と言うのも1991年時点では現代のような「プログラミング言語をタダで入手出来る」なんて状況が整ってなかった、からです。オープンソースウェアの開発が活発化し出したのはLinuxの登場以降暫くして、なんですが、Linuxの登場自体が丁度1991年です。従って、オープンソース隆盛以前の当時は「プログラミング言語」は「必ず買わなければならないモノ」だったのです。
つまり、このテキストの「現代のプログラミング用教科書では絶対必要な記述が欠けててもO.K.」だった理由は、テキストに「Turbo Pascal」と記述されていれば、当時の通大生は「Turbo Pascalを買わざるを得なかった」と言う事に由来します。何故なら「商品として買う以上は」当然Pascalの基本操作マニュアルが付いてきますから。だからこう言う「製品マニュアル頼み」の「配慮が欠けた体裁/記述でも」1991年辺りでは充分だったのです。
反面、現代ではその「Turbo Pascal」自体が既に存在しません。Pascalの入手は極めて困難だ、ってのもこの間指摘した通りです。少なくともWindowsで「純粋なPascal処理系」を手に入れるのは極めて難しい。じゃあ、どうすんのか?と。
仮に通大生がPascalを入手出来た、としましょう。んで?それで?
通大生ってのはPascalを入手して、コンパイラ起動しても
「あれ?おかしいな。テキスト通りにPascalにプログラム打ち込んでも全然動かないぞ。」
とか言いかねない、んです。いや、ホント、マジだっての。彼らはコンパイルさえ知らない。
「ええ〜、うそ〜〜!!!ぎゃはははは。そんなヤツいるかよ。」
とかプログラミングちょっとでも齧った人間なら大笑いしそうなネタですが、ところがどっこい、これは通大生だったらやりかねない。断言しますが、通大生はそう言うレベルなんです。
(逆に言うと、この「笑い」の理由について、通大生は十中八九意味が分からないと思います)
通大生がバカだから?違いますよね。通大数学コースのコンピュータのテキストにプログラミングの初歩的な事柄が丸っきり書いていないからに他なりません。エディタとは何なのか、コンパイラでコンパイルする、ってのはどう言う事なのか、Pascalで例示コードが記述されているワリには一切そのテの基本的な事柄が書いてないのです。
特に、エディタの設定辺りは亀田自身も過去苦労した事なんで、これは痛いほど分かるのです。1991年当時の状況を引きずったままのコンピュータのテキスト使用、なんて害悪以外の何物でもありません。
敢えて言います。これも通大が「非公開の教育」を行っているから、こう言う状況になっている、んですよ。違いますか?
これは「外部からの通大の教育システムに関しての批判」としては妥当な例だと思います。
ちなみに、通大生は1991年当時はよっぽど優秀だった、と思われます。少なくとも気合が違った。
実は、今は亡きTurbo Pascalってのが現代のDelphiの先祖、です。そして、先ほども書いた通り、1991年当時はプログラミング言語はほぼ「買わなければならない」モノでした。
現代のDelphi の値段を見ると、その価格は8万円前後。恐らく当時のTurbo Pascalもそのくらいしたんじゃないですか?下手すれば10万円くらいしたでしょう。そして、通大の学費以外にそう言う支出をするのも厭わなかった、んでしょうね。明らかに当時の通大生の覚悟は違います。
反面、今の通大生はどうか…?「参考書も購入しない」で「ネットで問題丸投げして」……。
ホント、通大の先輩達は偉大、です。今の通大生(の一部だと思いたい)がダメダメなのです。
なお、Turbo Pascal、と言う名前自体は言語名ではなく、これはBorland社(現CodeGearブランド。2008年6月に米Embarcadero Technologiesに売却された。)の登録商標です。言語自体の名前は、当時はObject Pascal、でしたが、これも「標準仕様がある」言語ではありませんでした。
いずれにせよ、プログラミングの教科書に於いて、特定の商業的ベンダーの実装を考慮/指定して書く、と言うのはあまり好ましくはありません(ただし、1991年当時はそのテの事に関してはあんまうるさくなかったんですけどね)。
さて、またウワサによれば、その「1991年製のテキスト」と共に、現時点では十進BASICを通大生にCD-ROMとして配布している、と言う話なんですけど、それでも抜本的な問題解決になっちゃいやしないでしょう。
一体、プログラミング初心者がどうやってPascalで書かれたテキスト読みながらBASICでプログラムを書けると言うのか。そもそも、テキストの例題を動かせないだろう、と。こりゃあやってる事デタラメだろ。いや、デタラメだよ。
(だからこそ質問<3557>の通大生同士のデタラメなアドヴァイスが出てくる土壌を形成してるのです)
まあ、この状況から言うと、「丸投げしたい気持ちは分かる」んです。決して「丸投げオーケー」とは死んでもいいませんがね。
また、こう言う例もあります。
亀:「今の状況で、ネット上の文章からワープロに即回答をコピペ出来る、ってのはアブないですよ。せめて、レポート提出用としてTeXが義務付けられているんだったら、まだ回答丸写し、にならないとは思いますが。」
課:「TeX………って何ですか?」
だから、専門的な技術用語は事務部側じゃ分かんなくって当然なんだっての。
この人たちが数学的/専門的なクレームを受講生から受けたって分かりませんよ。絶対に。やっぱ教員側が最後まで全責任を持つべきとちゃうんか?
亀田自身が確かめた、って言った意味が分かったでしょ?
なお、レポート課題のワープロ提出じゃなくって、普通の大学の理系の学生よろしく、TeXでの提出義務付け、になったら凄い事になるぜ(笑)。
今までの、通大生の「丸投げ君」陣はTeXなんて間違いなく使いこなせないんで、ボロボロと脱落するのは間違い無し、です(笑)。
まあ、でも、「学生の質」を維持するんだったら、そう言うテもある、って事です。
この辺で「理系の素養が」ふるい分けられます。
こうやって見てくると、やっぱり通大生も通大側もどっこいどっこいでしょ?うん。どっこいどっこいなんですよ。
通大側にもう一度釘を刺しておきますが、教育の公開性は絶対に大事です。大学である以上やはり大学であって、また、モデルとして選ぶのは大学のやり方の筈です。
同じ通信制だからってZ会や進研ゼミのやり方なんかをモデルにすんな。アレは教育やってるワケじゃねえんだから。
ハッキリ言います。Z会や進研ゼミ「だけで」学校教育の代行なんてできないだろ?って事です。あれは中学校や高校等の正規の教育があるからああ言うスタイルが成り立つだけ、なんで、そもそも教育システムとしては片手落ち、いや、そもそも成り立ってないんですよ。
よってZ会や進研ゼミみたいな企業秘密的な大学教育システムなんて成り立ちませんよ、って事です。大学なら大学らしくして下さい。マジで。お願いします。
さて、今回のネタはこれで終了ですが、参考資料を二つ程。
これは過去、Usenetに投稿されたモノです。時期を見ると1999年のモノですね。非常に興味深い投稿です。
Usenetと言うのは研究者でUNIXユーザーが研究に関しての情報交換を行う、まあ、今で言うとメーリング・リストなんですが、この「研究者同士の交流の場」に突如通大数学コースの学生が問題投稿を行う、と言う珍事が起きた模様です。
これがなかなか面白くって(笑)。明らかに「場違い投稿」なんですが(笑)、学者先生達の反応も面白い、です。
まあ、色々と含む事があるんですが、取りあえず参考資料としてお読みください。通大生の「気質」がある意味垣間見れると思います。
ちなみに、この「場違い通大生の投稿者」は市川聡久と名乗っていますが、実は彼は玉川大学通信教育情報交換サイトの管理人その人です。
2002年辺りには玉川大学通信教育情報交換サイトにはFAQのコーナーがあったんですが、そこにはこんな事が書かれています。
このサイトの作者は?玉川大学との関係は?作者の意図は?
このサイトは玉川大学の通信教育課程の科目等履修生だった市川聡久が勝手に個人的に作ったもので、玉川大学とは何の関係もありません。 このホームページについて玉川大学に問い合わせたりしないでください。作者は自分と同じように玉川大学の通信教育をしている人たちのために作りました。通信教育は1人でやってると嫌になったりばかばかしくなったりしがちですが、全国で自分と同じように頑張っている仲間を見つけられれば勉強の励みにもなります。インターネットの性質はそのような用途に適しています。
作者は一学生に過ぎず特別に提供できる情報を持っていません。 このページを利用される方がお互いに自分の持っている情報を教え会うことができるようにという意味をこめて、「情報交換サイト」と名づけました。サイトというのはメーリングリストなどWeb以外の部分も含めてという意味です。
どちらかといえばWebよりメーリングリストの方が本命ですので、みなさんどしどし参加してください。問題がおきた場合の法律的責任の所在について
このサイト(ホームページ、メーリングリストなどを含む)に関するいかなる損害にたいして、管理者:市川聡久および玉川ML運営委員会はいっさいの法的責任を持ちません。
なお、同問題の類題は当然高校数学の窓にも投稿されていますね。質問<2949>、質問<2950>、質問<3320>辺りがそれです。質問<3320>が2006年の投稿ですから、7年間にも渡って「通大のレポート課題の代表的な形式になってる」って事が分かります。
なお、次回のお題は「ネット隆盛と数学系回答サイトの問題に付いて」です。
玉川大学 数学コース掲示板