質問<3658>2007/12/26 from=かもめ 「和算について」
図書館の本に「和算」について書いてありました。
関孝和が考えた、微分・積分というのは
どのようなものだったのでしょうか。
★希望★完全解答★
ええと、これも本来だったら「数学史専門家」とか「和算の専門家」に訊いた方がイイ質問だとは思います。
大体、僕は数学史の専門じゃあありませんし、それどころか数学の専門家でも御座いません(笑)。
とは言っても、「関孝和は微積分を発見してた」と言うのは良く聞く、ワリと有名な話ではあるんで、
「ネット検索すれば事足りるだろ」
と高を括っていたのは事実です。
んで、ネット検索色々かけまくってたんですね。
結論から言います。
「良く分からん」
です(笑)。
もうちょっと言うと、
「ホントに関孝和は微積分を発見してたのか?かなりグレーゾーンだよな。」
と言うのが亀田なりの見解です。
まず最初に言っておきますが、亀田個人では
「和算だから西洋型の“現代の数学”に劣ったモノである。」
と言うような偏見は特にありません。
実際、亀田は日本人ですし、「日本人が世界に先駆けて微積分を発見してた」と言うのならこれは非常に嬉しい話です。
が。
しかし。
どうやらネットで調べてみた限り、そのテの資料とか、ないしは解説記事ってのは「皆無」なのです。
非常に不思議なんですが。
まあ、専門家ではないので、出来れば「専門家」にご登場願ってこちらの盲を覚ましてくれるのを期待したいトコなんですが、少なくとも亀田が調べた限りでは「関孝和微積分発見説」ってのはかなり眉唾っぽいカンジです。
ちょっと背景を説明します。
問題は、一体誰が「江戸時代の数学者、関孝和が微積分を発見した」と言い出したのか?、と言う事です。
どうやら数学者の藤原正彦さんが言い出したようなんですね。藤原正彦さんは国家の品格と言う著書でも有名なお方です。
まあ、その論の是非はともかくとして、一応基本を押さえておきましょう。
それは「どうしたら誰が第一発見者として認知されるのか?」と言う仕組みです。
基本、カルダノ以降、「第一発見者」とされるには、
「誰もが見聞き出来る"発表"をいつ行ったのか?」
が基準とされています。
その「発表」の為の媒体は時代によって異なります。今はネットで「論文発表」が比較的簡易に行えるようになりましたが、古い時代になると、要するに「本と言う媒体で」いつ出版されたのか?がかなりの部分で重要なポイントになるようです。
有名なニュートンvs.ライプニッツの「微積分第一発見者論争」がなぜ起きたのか、と言うのもこれに起因しています。ニュートンは著書「プリンキピア」を発表した時、微積分の新しい計算方法をダイレクトに発表するのを躊躇い、「幾何学的手法」により発表を行いました。一方ライプニッツは自身が編み出した手法を「そのまま」世に問いました。そうなると、原則「ライプニッツが先に発見した」って事に慣例ではなってしまうようです。「俺の方が先に発見したんだ!!!出版が遅れたんだ!!!」と言っても客観性が無いんです。
(実はこの物言いを強引に行ったのがニュートンなんですが・笑。ニュートンは実は無茶苦茶性格が悪かったのは割に有名な話です・笑。)
さて、そうなると「慣例に従う限り」一体関孝和がいつ何と言う名前で「微積分に関して」書物を上梓したのか、が鍵になるんですが……。
ところが「それ」が無いのです。
関孝和の著書、と言うのは亀田が調べた限り、生きてる間(1635年?〜1708年12月5日)は次の本しか出版されていません(なお、死後何冊かは出版されている)。
発微算法
これは高次多元連立方程式に関する書物です(すげえ内容・笑)。なるほど、確かに「関孝和は天才だった」と言う事に対して異論はありません。全く凄い人が日本にはいたものです。
が。
しかし。
「天才であった」と言うのと「微積分を発見した」と言うのは原則関係が無い話です。つまり「現存する(関孝和が書いた微積分に関する)資料が無い」んですね。
元々日本では剣道とか茶道とか見れば分かりますが「××流」等と言う「派閥」を作るのが主流でしたし、ひょっとして「秘伝として」弟子に微積分が受け継がれていた可能性自体は否定出来ません。関孝和は事実「関流」と言う流派の開祖です。弟子に伝える「秘伝」があったとしても不思議ではないですし、そこまで否定するような根拠はありません。
ただし、それにせよ「状況証拠」ですし、結局「客観性が無い」以上何とも言えないのです。
なお、「区分求積法に付いて日本で初めて書かれた本」が1729年(関孝和の死後約20年後)に松永良弼によって上梓された「立円率」です。これには球の体積を区分求積法によって求める記述があるらしい。
ですが、それはやはり「区分求積法」であって、「積分」ではありません。また、「区分求積法を発見してた事自体は凄いんじゃない?」ってのはその通りですが、それを言っちゃうと、古代ギリシャ人も「区分求積法」自体は知ってたでしょうし(笑)、そのまま何千年も求積法は発展も無く「据え置かれていた」ワケですよ(笑)。問題は今僕等が見るような「積分法」と言う方法論が明文化されていたのかどうか、なのです。結局、松永良弼が本を出版した時点でも「積分法を確立していた」ワケではない。つまり、「積分法に到達するまで後一歩だった」と言うのもあんまり説得力がある議論ではないのです。
(例えば、フェルマーなんかも「三角比」を使ってかなり「微分に近いアイディア」を思いついていたらしいのですが、だからと言って「微分法の創始者」にはなっていません。そう言うモノなんです。)
また、上の「立円率」と言う題名を見れば分かるでしょうが、これは「円や球体に関する考察」がメインなんですね。よって「一般的な求積が議題」ってワケでも無いようです。スペシフィックな議題ですし、「求積と言う一般技法」に関する考察でもないようなのです。
さて、どうしてネット上で「関孝和の微積分」の資料が全く無いのか、その理由が何となくお分かりでしょうか?要するに資料的に見ると「根拠がないから」の一言に尽きます。反証が出てくればむしろ嬉しいくらいんですが、今のところは「眉唾」としか言いようが無いですね。
まあ、僕も「ネット上で調べた」だけなんで、所詮二次資料、三次資料を焼き直しただけに過ぎません。出来れば「和算の本の現物」読んでみたいトコなんですがね。読めるかどうかはさておき、ですが(笑)。
←和算書ってこんなん(笑)。 「読めるか!!!」とツッコミたい(笑)。 |
以上です。
注:なお、和算の世界には「較元表」と称するの微分結果を表にしたモノが存在する事だけは一応突き止めたんですが、現物がどんなモノなのかはヒットしませんでしたし、一体誰がいつ頃何の目的で作ったのか?も今のトコ不明です。これに付いては今後の課題としましょう。
参考リンク:日本の数学・和算
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